戦死上回る病死

雑学コラム

オヤジから聞いた話「補給なき軍、戦死上回る病死」

今年(2020年)は戦後75年にあたる。
毎年、8月と言えば、戦争を振り返る話題が多くなるが、子供の頃、父(2008年、没)から聞いた戦争の話を書いておきたい。

父は、戦争に行っていた期間が15年ぐらいあったと聞く。かなり長い方ではないだろうか。

満州で極寒に耐え、その後は南方を転々とし、最後はボルネオで終戦を迎えたらしい。

戦争末期のボルネオでは、食べるものも食べられず、毎日、マラリアで何人も死んでいったとのこと。

なんせ、食べるものがなく、皆、痩せこけた状態だから、それこそ免疫力なんかもとことん低下していただろう。

敵はアメリカではなく、マラリアと赤痢だと言っていた。
免疫力より、それこそ精神力で病に勝たないと生きて帰ってはこれなかっただろう。

ボルネオあたりだったら、ヤシの実とか取って食べればと言ったら、
「もう食べ尽くしてそんなものすらない。浜辺でカメでも見つけたもんなら、競い合うようにして、甲羅以外、全部食べた」とのこと。

飢餓状態の凄まじさが伝わってきた。

 

マラリアやアメーバ赤痢は病気のうちに入らない

2020年8月3日付けの読売新聞の記事。

1944年3月8日、当時22歳の高雄たかお市郎さん(99)(栃木県那須烏山市)は、30キロ・グラム以上の背のうを背に、ビルマ西部のヤザギョウから直線距離で約160キロ・メートル先のインパールに向けて出発した。

背のうは腰を下ろすと一人で起き上がれないほどの重さだったが、携行した米は20日分の4升(6キロ・グラム)。平時の3分の1の量だった。加えて塩と唐辛子。米はすぐになくなり、現地住民に食料を譲ってもらったり、野草を煮て食べたりした。人肉を食べた話も聞いた。

5月には雨期入りして病気が蔓延まんえん。薬品は足りず、行き倒れや自殺する兵士も多かった。「マラリアやアメーバ赤痢は病気のうちに入らない」。そう励まし合って耐えた。インパール作戦が中止となったのは開始から4か月後。将兵約10万のうち、戦死3万、傷病兵4万といわれる無謀な作戦だった。「『食料や物資は敵のものを奪え』との指示だったが、そんな虫のいい話はない。上層部は兵士の犠牲など何とも思っていなかった」

日中戦争が泥沼化してから、日本軍の戦病死者は、戦闘による死者(戦死者)を上回るようになった。日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数230万人のうち、戦病死者と餓死者は約6割に上るとの推計もある。衛生状態の悪かった近代初期は、戦病死者が戦死者数を上回るのは戦争の常だったが、日露戦争以降は逆転していた。一橋大名誉教授(軍事史)の吉田裕氏は「ある種の退行現象が起きていた」と指摘する。

制空権・制海権を奪われ、兵站へいたん(補給)が断たれる。大量動員で体格や健康の劣る兵士まで戦場に投入される。加えて戦時医療の立ち遅れ。連合国側は重傷者への最優先措置は輸血だと認識し、最前線まで大量の血液と血液製剤を輸送していた。これに対し、日本は傷口の消毒と、圧迫包帯で止血するだけだった。

原因は何なのか。

吉田氏は「国力を超えて戦線を無理に拡大したことが最大の原因」と説明する。そもそも主要な仮想敵を米ソ両国とし、正面装備を整えることが無謀だった。「経済的に長期戦に耐えられない自覚があったからこそ、短期決戦を志向して作戦を優先し、兵站が後回しにされた」

防衛大名誉教授(日本近現代史)の戸部良一氏も「源義経の鵯越ひよどりごえや織田信長の桶狭間が語り継がれるように、劣勢は作戦・戦術で挽回すればよいという発想が日本には非常に強い」と話す。だから兵器の整備が優先され、兵站を無視した作戦が行われる。

戸部氏は「人」の軽視も指摘する。精神論に傾き、兵士の消耗を考慮しない。英米の軍隊が兵士を交代で休ませ、兵站が成り立たなければ作戦を中止したのとは大きく違っていた。「資源という観点から兵士を重視していたのは英米側だ」

 

組織文化も兵站軽視を助長した

吉田氏は、軍内部では問題点の冷静な指摘は消極的とみなされ、勇ましい意見が歓迎されるとする。将校の昇進に学業成績が重視されたことも問題で、「戦場の現実を知らずに精神論や観念論に流されやすく、兵士の痛みへの想像力もない」。戸部氏も「エリート参謀は、地図を見て戦争をしていた」と評する。

これらの問題が影響し合い、戦病死の多さにつながったと吉田氏はみるが、戦後も兵站や衛生の重要性は顧みられなかったという。全102巻の公刊戦史『戦史叢書』に、兵站や衛生に関する独立した巻はない。「敗因を考える上で、その分野の総括は最も重要なはずなのに」

そして、「今も『日本の組織体質は変わっていない』と感じている人は多いのではないか」と憂える。コロナ禍の今、日本の組織は弱さを克服しているだろうか。
(文化部 小林佑基)以上、読売新聞の記事より

マラリア対策 戦線拡大で破綻

『マラリアと帝国』などの著書がある青山学院大の飯島渉教授(医療社会史)は、「日本軍がはなから疾病対策をおろそかにしていたわけではない」と話す。植民地・台湾では、先進的なマラリア対策を行っていたためだ。住民の血液検査を行い、感染者には特効薬のキニーネを投与。そうしたマラリア原虫への対策が効果を発揮し、マラリアはかなりの程度、抑えられていた。

第2次世界大戦、南方軍の報告書

写真付きで詳細に記録されている南方軍の報告書

だが、日中戦争が中国南部に拡大すると、マラリアにかかる兵士が激増した。兵站の途絶で体力が低下し、薬も届かなくなったからだ。土木工事による環境改変や薬剤散布など、マラリアを媒介する蚊を駆除する対策もできなかった。

日本は日露戦争やシベリア出兵などでは衛生史をまとめ、兵士の死因や傷病などを精緻せいちに記録していた。戦時中も、泰緬鉄道建設工事現場でのマラリア対策について、南方軍が詳細な報告書を作っていた。

飯島教授は、日本が結局、台湾での成功体験を柔軟に変えられなかったと指摘。「日本の組織には、うまくいっている時は緻密さや几帳面きちょうめんさがあるが、いったん狂い出すと、修正がききにくくなる側面があるのではないか。方向性を途中で変えにくい空気が、今もあるように思う」と話す。

 

最後まで、きれいな海には行きたがらなかった

父を沖縄とか、ハワイとかに連れて行ってあげようとしたけど、頑として行かなかった。

その時は、意固地になっている父を理解できなかったが、今思えば、南方のきれいな海が血に染まっていた中を生き抜いてきたのだ。
思い出したくなかったのだろう。

そんな父が言っていた、
「あのまま満州や北方に残っていたら、ロシアの捕虜になって、生きて帰ってこれなかったやろな」

「アメリカの捕虜になってよかった、食べ物が豊富で天国だった」とも。

父は、海軍で、戦闘機の整備兵だったらしい。

最後は整備どころか、敵の爆撃で穴の開いた滑走路の補修ばっかやってたらしい。
「整備兵じゃなかったら、とっくに死んでたろう」って言ってたなあ。

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スモーキー

1955年生まれ。30代で2回転職し、40代で独立。3回目の結婚が進行中。5年前にジムで腰・太腿を痛めてからストレッチオタクに。スモーキーの詳細

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